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楽農楽写Z

西中国山地の風景だけを撮影する団塊男が定年後、広島県安芸太田町に休耕田付きの民家を借りて、田舎暮らしを楽しんでいます。豊かな自然を紹介しながら、地域の情報を発信します。       

集落を歩く 戸河内猪山

  集落には明治以降の戦争にまつわる石碑がある。ほかにも圃場整備や林道の完成、学校跡地を記す碑が残る。地域の歴史や住民の古里への想いが刻まれている。懸命に読み取ろうとするが、時がたち不鮮明で戦前の文章は読みづらく、消化不良になる。戸河内・猪山には日清戦争で戦死した一人の兵士の経歴などを漢文で記した碑と、よく手入れされた日露戦争の戦病死者と出征兵士の碑がある。彼らが衰退する今の故郷を見てどう思うのか、いつも言葉を失う。

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日清戦争で戦死した佐藤小三郎さんの碑。外地で戦死した初めての人だったのではないかと思う。家族ははもちろん、住民にとっても衝撃の大きさを物語る、詳細な経過を伝える碑文である

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日露戦役紀念碑。戦病死者3人、出征者9人、いずれも下級の兵士。貴重な労働力であっただろう12人の若者が山間部の集落から駆り出された

 集落から少し高い位置にあった小学校跡地は意外に広く、きれいに整備されている。2009年の真新しい小さな閉校記念碑の裏には、世帯数23、人口97、猪山自治会とだけ記されていた。悔しさがにじむ。一方、広島県知事の書による1975年の開学百年碑は堂々として、裏には歴史が刻まれ、当時の住民の誇りがうかがえ、閉校とは対照的だ。近くにある温井ダム建設に伴うスポーツ施設の周辺整備事業碑はそっけなく「記念」とだけ彫られている。

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昭和50年(1975年)設置の開学百年碑の裏には、明治十四年(1881年)分教場開校となっていて年数が合わない。おそらくその6年前に地域が設けた学校があったのではないかと思われるが定かではない

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ダム周辺整備事業記念碑。ダム建設の残土を埋め立てて野球場やテニスコートが造成された。グラウンドや周辺の斜面は手入れが行き届いていた

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集落を歩く 高山(安佐北区)

 40年ほど前に撮影で訪ねた安佐北区安佐町高山へ踏み入れた。林道の役目を果たしているのか道は整備されているが、宇賀ダムから約6㌔ほど深い谷筋の狭い道が続く。いつ廃村になったのか分からない。多くの家は山に飲み込まれ、立派な構えの家が辛うじて往時を偲ばせる。炭や薪、木材を町へ出荷するには過酷な地形だ。田畑は限られ、日当たりは悪い。それでもこの地で生計を立てた人たちを思うと、人間の生き抜く強さを感じる。時は静かに流れる。

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撮影に訪れたとき「道から外れんさんなよ、チャン(罠)が掛けてあるけえ」と主人から注意されたのを鮮明に覚えている

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離村する際に植えられたのか、桜は大きくなっている。ときどき帰られるのだろう、最近剪定された枝があった

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墓地へはお参りするようにしている。縁のない人だが、その人の人生に触れられるような気がする

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梅は3分咲き。石垣に圧倒される。何代ものお年寄りや子供が歩いた。その様子を想像する

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宇賀小学校高山分校跡。子供たちの声が山に響いていたのだろう、1970年廃校。撮影に来たときには小さな校舎が残っていた

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道路脇にある地蔵尊堂。お堂の由来と建て替えの経緯、寄付額が書かれていた。2002年、25軒が124万円を寄進して建てた。そのときは廃村状態ではなかったのか、故郷への愛と人のつながりの強さを裏付ける

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集落を歩く 勝木大野(安佐北区)

 昔は主な収入が何だったのかと思う集落が太田川沿いにあり、気になっていた。廃線になったJR可部線の安芸亀山駅があった安佐北区勝木の大野集落。背後は山、傾斜地で田んぼはない。ただ、南向きで日当たりは抜群。「以前はフキや柚子を作っていた。田んぼは行森(集落)に持っている人がいる」という。山際まで石垣があり、見事な畑だったろう。雑草が茂っている場所は少なく、空き家が増えたというが管理は行き届き、集落に荒れた感じはない。

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太田川から1段高い位置から家が並ぶ、「山崩れより、大水が怖い」。林業が主産業だったのかもしれない、薪や炭を舟で可部や広島へ運ぶにはいい場所だ。ほかに狩猟や川漁も考えられる

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集落は石垣で成り立っている。太田川沿いの石垣は丸い石が多いが、ここではほとんど使われていない。斜面を開墾する際に出た石を使ったのだろう。がっちりしているとは見えないが、崩れそうな場所もなかった

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シカの出没が多く、畑を囲うのはもちろん、屋敷内へ入らないようガードを固めている

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裏の畑に太陽光発電。かつては茅葺屋根の母屋、倉と納屋が並び、今にして思えば絶景だったに違いない

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水路ともいえるような川が何本かある。川底の石の隙間はセメントで塗りつぶされ、小さな道までアスファルトで固め、雨に備えている

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集落を歩く 杉ノ泊(安芸太田町)

 安芸太田町加計の深山峡入口から急坂の狭い道を車で数分走ると、杉ノ泊の集落がいきなり開ける。圃場整備され、耕作放棄地は少なく、集落全体の草刈りが行き届いている。3人と話したが、見知らぬ私へ気安く語ってもらった。5反の稲作をしている人は「年寄りばかり、あと5年でどうなるか」と先を案じる。集落は上と下に分かれていたが最近、地域行事の運営は合同でするようになった。見た目の風景は元気そうだが、忍び寄る衰退は止めようもない。

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杉之泊小学校の閉校記念碑(写真上)、2009年に134年の歴史を閉じた。小学校がなくなると、地域は一気に活力を失う。講堂が残され、地域の行事に使われている(写真下)

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空き家になって長いのだろうが、きれいに管理されている。赤土の倉は傷んでいないし、雨戸は昭和30年代までの姿を残している。軒下にはシートが敷かれている。引き継いだ人の思いが伝わる

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キルトの作品が飾られている民家。田舎暮らしを満喫、どんな人か話してみたい

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田んぼや家の周りには電柵が張り巡らされている。それ以外の場所はイノシシが掘り起こしている。下の写真、自家用の畑は砦のようだ

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圃場整備された大きな法面が多くある。草刈りが大変だろうと思う。頭が下がる

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山際へ鳥居だけ見えたので行ってみると、杉の大木に囲まれた神社があった。かつての地域の力を示している

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看板が目につき、急停車。山仕事の資材・機材置き場のようだ。安芸太田は林業が大きな産業だった。今にも通じる「安全心得」。「先づ」と「保安帽」に昭和の匂い、「ルール」はいつ頃から一般化したのだろうか

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これまでにも気になっていた総2階の立派な家。88歳の主に聞くと、1918年(大正7年)の建築。ステンレスになっている屋根は檜皮葺きだったという。「どうやって儲けたか知らんが、この辺では大きな山持ちだった」。小さな出入り口がある玄関と、その横の武士や位の高い客が上がる場所は、建築当時のままのようだ。現住の
貴重な建築遺産だ

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集落を歩く 津都見(安芸太田町)

 険しい山に挟まれて蛇行する太田川の内側の洲に集落が形成されている。津都見にはここ数年、大規模なビニールハウスが建てられ、地域外の若者が入植して小松菜を生産している。圃場整備され、トラックが入れる農道があったのが進出を可能にしたようだ。ハウスの周辺の田んぼは耕運されている。集落には空き家が多く、防草シートを張った畑や空き地はあるが、「農業が動いている」と頼もしく感じる。入植4年、経営はまずまずのようだ。

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「ひろしま活力農業経営者研修制度」による事業。年収1000万円を目指す。この日は障がい者施設の入所者が収穫後の後片づけをしていた(写真2枚目)。スーパーで見かける小松菜を整える地元の女性(写真3枚目)

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這うようにして檜の苗を抜き、出荷作業をする夫婦。津都見はかつて、杉や檜の苗の大産地だったと教えてもらった。子供のころ、父親に連れられて実家の山へ背負って運んだ杉の苗は、津都見産だったかも知れない。多いときは20軒、今は1軒になったが、入植した若者が苗の生産を始め、技術がつながった

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太田川の丸い石を積んだ山際にある数軒共同の墓地。墓石の大きさ、形は様々、共同体の歴史を感じさせる

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